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2017年2月アーカイブ

バレンタインデーの由来 (2017/02/21)

DSC_0270chokoreito.JPG日本は有史以来、中国をはじめとする外国の文化を積極的に取り入れ、在来の文化と融合することで日本独自の文化を形成してきました。そして、明治維新以降は西欧の文化、第二次世界大戦以降はアメリカの文化を積極的に受け入れてきました。最近は神社に七五三のお参りをし、教会で結婚式を挙げ、お葬式は仏式で行うということも珍しいことではなくなってきました。そして、今ではキリスト教の記念日であるバレンタインデーやクリスマスもすっかり定着してきました。

2月14日はバレンタインデーで、わが国ではこの日に女性から男性にチョコレートを贈るということが習慣化してきていますが、外国では花やケーキやカードを恋人に贈る習慣はありますが、必ずしもチョコレートを贈る習慣になっているわけではありません。

この日の由来について知らない人も多いようですので紹介します。

269年、ローマ帝国の皇帝であるクラウディウス2世は若い戦士達が戦争に出たがらないので困っていましたが、その理由は彼らが自分の家族や愛する者達から去りたくないからであると確信して、兵士達の結婚を禁止する『自由結婚禁止令』を出しました。しかし、キリスト教司祭であった聖バレンティノ(英語名:バレンタイン)はこれに背いて恋人達の結婚式を執り行ないました。当時、のローマではキリスト教が迫害されており、皇帝はバレンティノに罪を認めさせてローマの宗教に改宗させようとしましたが、それを拒否したために捕らえられて2月14日に処刑されました。

この日が恋人達の日とされたのはバレンタインが処刑されて殉教者となった命日と、もともと2月14日と15日に行なわれたローマの恋人達の祭りとが意図的に合わせられて定められたと言われています。

現在、わが国では、この日に関連して売れるチョコレートの量は、年間の12~15パーセントと言われていますが、高級品を扱っている店では、実に30%を超えるようです。しかし、ここにいたるまでには、菓子メーカーの涙ぐましい努力があるのです。バレンタインデーにチョコレートを贈るというイベントは、1958年(昭和33年)、メリーチョコレートの営業主任であった原邦生氏(後に社長に就任)がヨーロッパにいる知人から聖バレンタインの話を聞き、新宿の伊勢丹デパートでキャンペーンセールを行なったのが最初です。ところが、3日間で売れたのは、わずか30円の板チョコ5枚と4円のカード5枚の計170円でした。それでも諦めずに、翌年からはハート型のチョコレートを売り出す等の新たな試みを行ない、昭和50年代になって、やっとイベントとして定着したのです。今年もデパートやスーパーには色とりどりのチョコレートが陳列されていましたが、最初のキャンペーンセールから数えるとまさに、60年近くになります。まさにお菓子メーカーの人達の挑戦の歴史と言えるのではないかと思います。  

 

 参考までに、チョコレートは、アステカ文明の人々がカカオやショコラという呼び名で、強壮剤として飲んでいたものをスペイン人が持ち帰ったもので、日本に伝来したのは18世紀末です。そして、最初に固形のチョコレートを製造したのは、1899年(明治33年)、森永商店(現:森永製菓)の森永太一郎氏です。また、世界のカカオ生産量の約半分を占めているのは、西アフリカにあるコートジボアールです。(中尾直史)

日常生活の中の干支~時間 (2017/02/21)

12345.jpg 今でも時間を指定する際、午前○○時、午後△△時という呼び方をしますが、これも干支に由来しています。
 古代中国では時間や方角を示すのに「十干と十二支」が使われていました。この影響を受けた日本でも時間や方角を示すのに「十二支」が使われてきており、これらに関する言葉や逸話は現在でも多く残っており、その一つが午前、午後という言葉です。
 人類は古来より太陽が頂点に達する時間とその正反対の時間を基準に1日の時間を計っていました。この理由は日の出や日の入は季節により変動するため真夜中を1日の起点としようと考えたからです。そして、東洋では1日を12で割り、順番に十二支を当てはめました。すると、2時間ごとに干支が割り振られることになります。最初の子の刻は0時を中心とする2時間、即ち23時~1時、それから順に丑、寅、卯、辰・・・と2時間ごとに割り振られ、最後の亥の刻が21時~23時ということになります。
 怪談などでよく使われる"丑三つ時"というのは、1時から3時までの丑の刻を4等分した3番目の時間、つまり真夜中の2時から2時半のことを指します。
 そして、午の刻は11時~13時ということになり、昼の12時のことを"正午"、それより前を"午前"、後を"午後"と呼んでいるのです。このように、日常生活において意識せずに何気なく使っている言葉にも意味があるのです。今はその他の干支が時間に使われることはありませんが、干支は恵方や鬼門をはじめ方角を示す時にも使われています。
                       (中尾直史)     

建国記念の日にあたって (2017/02/10)

s-P1060070hinomaru.jpg2月11日は「建国記念の日」ですが、近年マスコミではほとんど取り上げられることはなく、新聞の朝刊の片隅に「きょうは建国記念の日のため夕刊は休みます」という記事が掲載されているだけです。このため建国記念の日についての関心は薄れつつあり、この記念日について説明できる人はほとんどいないのではないかと思います。

この日は、かつて『日本書紀』が伝える日本国を統一した神武天皇(初代天皇)即位の日として、1872年(明治5年)に制定された「紀元節」でした。この紀元節には全国の神社で「紀元節祭」と呼ばれ祭事が催されていたほか、庶民の間でも「建国祭」として祭典が行われていました。しかし太平洋戦戦争後「紀元節を認めることにより、天皇を中心とする日本人の団結力が高まり、再び米国の脅威となるのではないか」というGHQの意向で、1948年(昭和23年)に紀元節は廃止されました。

しかし、その後間もなく紀元節を復活させようという動きが高まり、テレビ局が行ったアンケート調査でも全国民の80%以上の人が「建国を記念する日」を望んでいるということがわかり、一気にこの動きが加速されることになりましたが、反対する動きもあってなかなか実現せず、9回にわたる法案の提出と廃案をくり返しました。そして、やっと1966年(昭和41年)に、建国を記念するための祝日として、名称に「の」を挿入し『建国記念の日』として国民の祝日に認められ、翌年から適用されることになりました。実に20年近い歳月が費やされたということになります。

建国記念日の定義は世界各国で異なっており、アメリカやカナダ、インド、マレーシア、カンボジアなど植民地や統治下から独立した日、イタリアでは共和制になった日、ドイツでは東西が再統一した日になっています。これに対して日本は史実に基づく建国日が明確になっていないので、建国神話を基にして記念日を制定しました。そのため建国記念日ではなく建国記念の日という呼び方になったのです。

よく神話を大切にしない国は亡びると言われますが、自分たちが生まれ育った国の歴史や文化を理解するためには日本の神話と呼ばれるものを研究することが大切です。これらは『古事記』や『日本書紀』や地方の『風土記』の中に見られますので、最近時間を見つけて紐解いています。

奇しくも、この時期に安倍総理とアメリカのトランプ大統領との間で日米首脳会談が開催されることになりました。世界は混迷の度合いを増していますが、日本という国の軸足をしっかりと地につけておきたいものです。 (中尾 直史)

 

二十四節気と立春 (2017/02/08)

s-P1090756.jpgs-P1090755.jpg 日本の魅力は春夏秋冬という四季があることだと言われていますが、暦の上でも立春、立夏、立秋、立冬が定められており、2月3日の節分の翌日(4日)は立春です。

日本では、太陰暦を使用していた時代に一年を二十四等分して区切られた期間(ほぼ半月)を節気とし、それぞれ季節の移ろいを気象や動植物の成長や行動等に託して表していました。これを見ても日本という国は農耕をベースにしてきたことがわかります。

立春はこの二十四節気の一つですが、旧暦のお正月とほぼ同時期にあたるため、一年の始まりという位置づけになっています。その名残りで、今も年賀状には「新春」や「初春」といった言葉が使われているのです。

立春というのは厳密には〝立春の節入り日〟であり、この日から次の二十四節気である「雨水」の節入り日の直前の日までの期間を指します。

二十四節気の中には祝日になっている「春分」・「秋分」のほか、「夏至」・「冬至」、「立春」・「立夏」・「立秋」・「立冬」等よく知られているものがありますが、日常ではあまり耳慣れないものもあります。そして、立春は冬至と春分の中間にあたり、この日から立夏の前日までが春ということになります。

この期間には次第に気温が上昇し、生物の活動が活発化してきます。まだ寒い日が続いていますが、気が付くと庭のバラや牡丹の芽も膨らみ始め、フキノトウも顔を出し始めています。まもなく日本各地から梅の開花の便りが届き、「春一番」と言われる南寄りの強風が吹き、暖かさと寒さを交互に繰り返しながら、本格的な春が到達してきます。                (中尾 直史)

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