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2016年2月アーカイブ

吉田松陰の言葉③ (2016/02/28)

松陰は行動することの重要性について、数多くの言葉を残しています。自分の利益を優先するのではなく、人として正しいかどうかをよく考えて行動する。そして、思い立ったら直ちに行動に起こす。そして、日々善行を積み重ね、仮に間違ったことがあれば直ちに改めるという姿勢を貫くことの大切を語っています。

◆君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。

賢者は議論よりも行動を重んじる悔いるよりも、今日直ちに決意して、仕事を始め、技術をためすべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない

◆士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない。

◆末の世において道義を実践したならば、必ずその時の人々から極端だといわれるであろう。もしまた、世人から極端だといわれるくらいでなければ決して道義ではないのであって、すなわち世俗に同調し濁った世に迎合したものにすぎない。

過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ

◆利を疎んずるということは、必ずしも富を厭い貧を欲するということではない。貧富によりて少しも心を乱さないということである。

◆悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術を試すべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。

◆平凡で実直な人間などいくらでもいる。しかし、事に臨んで大事を断ずる人物は容易に求めがたい。人のわずかな欠陥をあげつらうようでは、大才の士は、もとめることが出来ない。

◆法律をやぶったことについての償いは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義を破れば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがない。

◆一つ善いことをすればその善は自分のものとなる。一つ有益なものを得れば、それは自分のものとなる。一日努力すれば、一日の効果が得られる。一年努力すれば一年の効果がある。

 最近は全くこの逆の状況が目につきます。行動の基準は〝自分の得になるか損になるか〟であり、努力をせずに大きな成果を求める、言っていることとやっていることが一致していないという傾向が強いようです。今一度、松陰の言葉を噛みしめていきたいものです。  《続く》              (中尾直史)

吉田松陰 後記① (2016/02/26)

 これまで、吉田松陰の生い立ちや彼が残した印象深い言葉を紹介してきました。多くの人は松陰や松下村塾について、ある程度の知識は持ち合わせておられますが、それでも松陰が30歳という若さで亡くなったことや松下村塾での指導期間がわずか2年あまりしかなかったにもかかわらず、どうしてこのような短期間に歴史に名を残すことになったのかについては疑問に思っておられるのではないかと思います。私も松陰についてより知りたいという気持ちで多くの著書を紐解き、松下村塾へも足を運びました。これらを通じて、松陰についての理解は深まりましたが、それでも彼の人となりを理解するところまではいきませんでした。

 しかし、ある時に明治41年(1908年)に発行された雑誌『日本及日本人』の臨時増刊号の複製本に出会い、松陰の人物像がかなり明確になりました。この臨時増刊号には、松陰の特集が組まれており、この中で「松陰先生の令妹を訪ふ」と題して、記事が掲載されています。松陰には6人の兄弟妹(民治、松陰、千代、濤子、美和子、敏三郎、艶子の順)がいましたが、この記事は松陰の2歳年下の妹千代のインタビューに基づいて書かれています。この時、千代は既に77歳になっていましたが、「70余年前の昔が偲ばれ、私も子どものときに帰るようです。」と懐かしむように話された紹介されています。また、千代は兄の松陰からの手紙を張りつけた書簡集を大切に持っていたようです。最も身近な方の話なので、これから何回かに分けて掲載していきたいと思います。  (中尾直史)

吉田松陰の言葉⑤ (2016/02/25)

松陰の言葉には、随所に彼の死生観が見られます。自分の信念に基づいてやるべきことをやっておれば、いつ死んでも変わらないという姿勢です。

世の中には、体は生きているが、心が死んでいるものがいる。この逆に体は滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても仕方がない。魂が残っていれば、体が滅んでも意味があるという考え方です。

◆かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

身はたとひ 武蔵の野辺に朽(く)ちぬとも 留(とど)め置(お)かまし大和魂

◆死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

◆17、18の死が惜しければ、30の死も惜しい。80、90、100になってもこれで足りたということはない。半年と云う虫たちの命が短いとは思わないし、松や柏のように数百年の命が長いとも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も一時蠅(ハエのような存在)なり。

 安政6年(1859年)、松陰は評定所(ひょうじょうしょ)で断罪(だんざい)書を聞きます。その内容は「国家の御為(おんため)と申すが公儀(こうぎ)を憚(はばか)らず不敬(ふけい)の至り。死罪申付ける」というものでした。今の裁判所で死刑判決を申し渡されたということです。

 これを聞くと、松陰は取り乱すこともなく静かに「畏まり(かしこまり)ました」と答えました。そして、くぐり戸から出る時、辞世の句を朗唱します。

吾 今 国の為に死す   死して君親に負(そむ)かず

悠々たり天地の事   鑑照(かんしょう)明神(めいしん)に在り

 この時、警護人は立ちすくみ、奉行をはじめ全員が襟(えり)を正して聞き入りました。そして、刑はその日のうちに執行されましたが、松陰は獄吏を労い、立ち会いの与力に「ご苦労様」と声をかけて座り、従容(しょうよう)として首を斬られました。首斬り浅右衛門と称せられた山田浅右衛門は「最も堂々とし天晴(あっぱれ)でございました」と周囲に語ったと伝えられています。実に享年30歳という若さの惜しまれる最後でした。

このように松陰の思想の根底にあるのは、真心をもって事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れ、最終的に道は開けるものだという信念でした。これを端的に表しているのが『至誠留魂』という言葉です。そして、前述したように自らの死を持って門下生へと引き継がれた松陰の思想は、やがて明治維新という形で大きく花開くことになるのです。まさに松陰は明治維新の先駆者であったと言えるのではないかと思います。

    (中尾直史)

松陰の言葉② (2016/02/16)

 松陰は〝学問〟についても多くの言葉を残しています。最近の子ども達を見ていると、勉強の意義がつかめていないケースが散見されますし、学校の先生や親も何のために勉強をするのかということをしっかりと伝えていないように感じます。〝学問に王道なし〟と言われますが、松陰は日々地道に自己研鑽をはかり、単なる知識の習得ではなく世の中に貢献するという姿勢が必要であることを伝えています。

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◆生を捨ててみれば、視界は雲なく露なくきわめて澄みわたり、世の現象がいかにもクッキリとみえ、自分が何をすべきかの道も、白道一筋、坦々として眼前にあります。今日の読書こそ、真の学問である。

◆学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。したり止めたりであっては、ついに成就することはない。

◆およそ学をなすの要はおのれが為にするにあり。

おのれが為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。

◆学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある。

◆学問ばかりやっているのは、腐れ儒者であり、もしくは専門馬鹿、または役立たずの物知りに過ぎず、おのれを天下に役立てようとする者は、よろしく風の荒い世間に出て、なまの現実を見なければならない。

◆つまらぬ名言を費すよりも、至誠を積み蓄えなさい。至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり。

◆学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。

たくさんの本を読むことで、名を残す立派な人となるのである。苦労を厭わずに努めることで天下国家の人々を幸せにできるのだ。 《続く》      (中尾直史)

勝 海舟  事の成るは艱苦の時に在り人の破るるは多く得意の時に在り (2016/02/14)

志の道 第三碑

事の成否を、回りの環境のせいにする人が多い。曰く、"経済環境が余りに悪かった" "パートナーが怠惰でどうしようもなかった" "自分の生まれた家庭環境が良くなかった"・・・etc 
 しかし、本当にそうなのだろうか。同じような環境の中で生まれ育った人間でも、一方に成功する人がいれば、もう一方には失敗する人がいる。同じ経済環境の中で仕事もしていても、一方には大企業を築き上げる人がいれば、もう一方には、何度も企業を倒産させる人がいる。失敗をした時に理屈を言えば、幾らでもうまくいかなかった理由づけは出来るであろうが、客観的に見れば、どうもその理由だけではないことが多い。自分自身を見つめ、自らの中に失敗の原因を求めるという姿勢が大事であろう。
 上の勝海舟の言葉は、更に挑戦的である。難しいことが成功するのは、環境の中の厳しい中で艱難辛苦を経験しているときにこそ、その種が播かれているのだというのである。逆に失敗は、多くの場合、順風満帆で何もかもがうまく進行して、本人自身も、得意絶頂という時にこそ、その種子が播かれているというのである。
 つまり、人生では、不運や悪い環境を嘆くことはない。むしろ、そんなことが多ければ多いほど、そして、本人がそれにくじけず、力強くその問題を乗り越えようすればするほど、大きな成功に向かって、一歩ずつ着実に歩みを進めていると考えて良いというのである。
 人生の中で、真の艱苦を経験した人ほど、困難に遭遇した時に強いと言われる。それは、艱苦の中に自らを深く見つめ、人生の真の価値を見出しているが故に、軽薄な環境論に毒されて、自分を見失うことが少ないからであろう。
 "艱苦またよし"の気持ちで、変転激しい人生の荒波に立ち向かってゆこうではないか。

崔銑の「六然」自然超然 処人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然
 "私の生き方は、自然体で何者にも捉われることなく、人に対してはなごやかに暖かく接する。そして、何か事が起これば、それには堂々と対処するが、何事も無ければ、澄んだ心でのびやかに生きる。得意の時には、それを誇ることもなく、淡々としているが、逆に失意の時にも、決してあわてることなく泰然としている。これが自分の人生の理想像である。"

「六然」とは、こんな意味の言葉である。尚、この言葉を残した崔銑という人は、中国・明の時代の進士。


(土岐 功明)

吉田松陰の言葉① (2016/02/13)

 松陰の教育を受けた門下生達は、倒幕や明治維新で新政府に関わる等、幕末・明治期において大きな活躍を果たしました。著名な人物としては、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖等がおり、彼らによって日本の歴史が塗り替えられたと言っても過言ではありません。しかし、わずか2年少しの間に、松下村塾においてこれだけの人材が育ったという事実は驚き以外の何物でもありません。

松陰の思想は、読破した多くの書籍や多くの人達から得た考えをもとに形づくられています。まず自らが志を持つこと、その上で真心をもって物事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れるというという考え方です。これを端的に表すのが「至誠留魂」という言葉であり、松陰は強い信念に基づいて、このことを実践しました。

そして、心に響く数々の言葉を残していますので、順次紹介していくことにしますが、とりわけ志について述べられたものが多いようです。

◆志定まれば、気盛んなり。

◆奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。

もし名誉や地位を得たならば天下国家を良い方向へ導くのがよい。もし困窮したら、自分の身を正すのがよい。自分の身を正しくしたあとに天下国家を良い方向へ導くのがよい。

◆私心さえ除き去るならば、進むもよし退くもよし、出るもよし出ざるもよし。私心がまだ除き去られないと、その進退出処みな私心に拘われて、道に反することとなる。

「国家とともに」という志がないならば、人ではないのである。

◆道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。

◆成功する せぬは、もとより問うところではない。それによって世から謗(せんぼう)されようと褒められようと、自分に関することではない。 自分は志を持つ。志士の尊ぶところは何であろう。心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか。

◆大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、やる気を出し努力することによって上手くいくのである。

古今東西の偉人達に共通しているキイ・ワードは〝志〟です。志を立てれば自ずと夢が生まれ、夢の実現のためには具体的な行動に落とし込むことが必要になります。実際にやって見て、うまくいかないこともしばしばあります。むしろ、うまくいかないことの方が多いかもしれません。しかし、ゆるぎない志を持って諦めずにやり続けることによって目標が達成できるのは間違いないと思います。   《続く》   (中尾直史)

吉田松陰 ⑦ (2016/02/12)

 その後、ついに幕府から松陰を江戸に送るようにとの命令が届き、安政6年(1859年)5月25日早朝、松陰は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かうこととなりました。この時の理由は安政の大獄で最初に獄死した小浜藩士の梅田雲浜が萩で松陰に会った事を話したためでした。
 江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、萩で梅田雲浜と話した内容と、松陰が京の御所に文書を置いたのではないかという2点でしたが、松陰は真実を話し、梅田雲浜との関係はなかったということになりました。ところが、松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、自ら「間部詮勝要撃計画」を告白してしまいました。どのような人間であっても絶対的に信用し、必ず自分の思いは届くはずだと考えた松陰でしたが、幕府評定所の役人は予期せぬ老中暗殺計画を知り驚愕しました。当初、松陰の罪は遠島だったようですが、井伊直弼大老の命により評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれました。こうして、松陰は波乱に満ちた30歳の短い人生を終えたのです。

 死を覚悟した松陰は伝馬町の牢獄で、家族への「永訣の書」と門下生達に向けた「留魂録」を記ししますが、この「留魂録」は、門下生達によっていくつも複写され、やがて志士達の心のよりどころになるのです。        

次回からは松陰の言葉について順次紹介していきたいと思っています。

 (中尾直史)

吉田松陰 ⑥ (2016/02/11)

 しかし、この松下村塾での指導は、わずか2年余りで幕を閉じることになります。松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことであり、大切なことは学んだことを活かし実行に移すことである。決して学者になってはいけない。」ということを説きました。そして、一方的に教えるのではなく、自ら学ぶという姿勢で塾生達に接し、一緒になって問題を考えました。また、講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれました。自分の信念を貫き、法を犯してまでも脱藩や密航を試みる等、果敢に行動した松陰であったからこそ、若者達の心は強く揺さぶられ、惹き付けられていったのです。そして、この2年余りの間に、松陰の薫陶を受けた門下生達が幕末や明治において、大きな役割を果たすことになるのです。

 こうして松陰は松下村塾において塾生達に行動することの大切さを訴えましたが、この一方で、自らも行動する姿勢を貫きました。安政5年(1858年)、幕府の老中であった間部詮勝(まなべあきかつ)が朝廷を厳しく取り締まろうとしていることに激怒し、間部詮勝を殺害しようと考え、この計画を実行するために、松陰は松下村塾の塾生に声をかけ要撃隊をつくりました。そして、何と藩にこの計画を打ち明け、武器・弾薬の提供を願い出ます。これを聞いて藩は驚愕し、松陰は藩にとって危険な人物であるということになってしまいました。そして、松下村塾の閉鎖を命じられ、再び野山獄に入れられることになりました。また、門人たちも投獄されることになり、この計画は失敗します。
         《続く》       (中尾直史)

吉田松陰 ⑤ (2016/02/07)

 その後、松陰と金子は萩に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄されますが、金子重輔は劣悪な環境の岩倉獄で25歳という若さで病死します。この野山獄は入ると一生出られないと言われており、囚人たちは将来の希望もなく荒んだ日々を送っていました。しかし、松陰は、勉強できる絶好の機会であるととらまえ、多くの書物を読み、獄中で囚人達を相手に「孟子」の講義を始めます。やがて、囚人達はこぞって松陰の話を聞くようになり、それぞれが生きる喜びを見出していきます。そして、この講義の内容が、後に松陰の主著になった『講孟余話』としてまとめられた。また、野山獄で隣の牢にいた富永有隣は年上にもかかわらず松陰に心酔し、弟子になることを願い出、後に松下村塾の助教授となりました。こうして野山獄は〝野山塾〟になり、松陰の教育の原点になったのです。

 安政2年(1855年)、27歳になった松陰は野山獄からの出を許され、実家の杉家に〝幽囚〟の身として戻ることになりました。そして、自宅に設けられた幽囚室で、親族や近隣の子弟を集めて「孟子」の講義を再開しますが、この講義は単なる解説ではなく、松陰独自の解釈を加えた素晴らしい内容であったため、高い評判になります。その頃、松陰の叔父・玉木文之進が開いた松下村塾は、隣家の久保五郎左衛門が教授として名前を引き継いでいましたが、松陰の幽囚室での講義に久保五郎左衛門が赴くようになったため、自然と松陰が塾長という立場になります。また、松陰は武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れたため、受講するものが増え続けました。そのため、3畳の幽囚室には塾生が入りきれなくなり、杉家の納屋を塾舎に改修することになりました。これが後の世に有名になった松下村塾です。やがて、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、更に長州藩全体からも才能ある若者達が集うようになりました。

《続く》             (中尾 直史)

吉田松陰 ④ (2016/02/06)

 ロシア軍艦に乗り込む計画は失敗に終わりましたが、これくらいでくじける松陰ではありません。翌、安政元年(1854年)25歳の時、ペリーが日米和親条約締結の為に二度目の来日をした際、再び金子重輔と二人で停泊中のポーハタン号へ乗船して、密航を嘆願しましたが、拒否されてしまいました。これが、松陰の名前が世に知れ渡ることになった「下田踏海事件」です。『下田踏海事件』については、多くの資料が残されていますので、今一度その詳細を紹介します。

松陰は金子重輔と共に小船で旗艦ポーハタン号に近づき、何とか乗船しますが、残念ながら二人共英語はしゃべれません。そのため艦上で主席通訳官のウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカへの留学の希望を伝えます。しかし、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があるということで、ペリー側は松陰たちの必死の頼みにも関わらず渡航を拒絶します。こうして、松陰の密航計画はまたしても失敗することになります。この時に松陰たちが手渡した書面がアメリカで発見されています。これには「外国に行くことは禁じられているが、私達は世界を見たい。この密航のことが知られれば私達は殺される。どうか慈愛の心で乗船させて欲しい」という決死の覚悟が記されていました。そして、ペリー側は密航を企てたという事実を公にせず、二人をボートで送り返したようです。

ところが、松陰と金子は自分達が密航の企てをしたということで自首したため、江戸に送られることになりますが、この道中で松陰は周りの人達に自らの思いや人としての生き方等について語りかけます。そして、江戸伝馬町の牢獄に入れられますが、ここでも囚人達に講義を続けます。やがて、牢番達も松陰の話に耳を傾けることになりました。      

《続く》                     (中尾直史)

吉田松陰 ② (2016/02/04)

 一方で、松陰は叔父玉木文之進だけではなく、山田宇右衛門や山田亦介からも兵学を学んでいきました。江戸で勉学していた山田宇右衛門からは、西洋列強の侵略に対する海防研究を、国内外情勢に詳しかった山田亦介からは西洋兵学を学びました。この二人の師の影響で、松陰は西洋列強からいかに国を守るかの研究に没頭するようになりました。そして、長州藩内だけの修業には飽き足らなくなり、諸国遊学を目指すようになっていくのです。 

 その後、松陰は20歳の時、藩府の許可を得て九州を遊学しますが、この旅は松陰にとって非常に有意義なものとなりました。長崎では巨大な外国船を間近で見ることができ、熊本では生涯の友となる盟友宮部鼎蔵(ていぞう)と出会いました。九州遊学から帰藩した松陰は直ちに江戸遊学を申し出て許可されると、翌、嘉永4年(1851年)兵学研究のため藩主に従って江戸へ赴きます。そして、多くの塾をかけもちして猛勉強しますが、西欧列国から国を守るという答えを見いだすことはできませんでした。

 そこで、松陰は江戸での生活に見切りをつけて、ロシア船が頻繁に出没する東北地方の視察に出かけます。しかし、これは藩府の許可を得ない無届出奔であったため、脱藩の罪を問われ士籍と禄高を没収され、父百合之助の監督下におかれることになりました。これによって、23歳で松陰は一介の素浪人となってしまったのです。この時、藩主毛利敬親は「国の宝を失った」と言って松陰の才を惜しんだと伝えられています。

       《続く》      (中尾直史)

吉田松陰 ① (2016/02/03)

 松下幸之助に続いて、今回、取り上げているのは吉田松陰です。昨年度のNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』で妹の文の生涯を通じて松陰の人となりの一端を知ることになりましたが、理解を深めるために、これから何回かに分けて彼の生い立ちや考え方について紹介していきたいと思います。

松陰は長門の国・長州(現在の山口県萩市)に、長州藩士であった杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として生まれました。生家の禄高は低く農業にも従事しており、幼い頃には父親から畑仕事の合間に素読の指導を受けました。素読というのは意味が分からないまま、声を出して漢文の文字だけを読むという初歩的な勉強の方法です。

父には吉田大助と玉木文之進という弟がおり、二人とも他家に養子に行き、家督を継いでいました。玉木文之進は自宅で松下村塾という私塾を開いており、松陰は兄とともに、この叔父の塾に通って学びました。このように、松陰の幼児教育は父と叔父という近親者によるものでしたが、極めて厳格なものだったようです。
 吉田大助の家は、長州藩の山鹿流兵学師範の家柄でしたが、子どもがいなかったため、松陰は時に、叔父の吉田大助の養子になりました。しかし、間もなくこの叔父が急逝したため、松陰は6歳で吉田家の当主になりましたが、これは取りも直さず藩校明倫館の兵学師範になる宿命を背負ったということです。そこで、松陰の兵学教育にあたったのが山鹿流免許皆伝の玉木文之進ですが、「お前は山鹿流の師範となる身である。人の師となる者が人と同じに学んでいてよいものであろうか」と言って、松陰をより厳しく教育していきました。これは、まさにスパルタ教育そのものでした。

こうして、松陰は10歳の時から長州藩の藩校である明倫館で山鹿流兵学を講じることになりました。やがて、この講義の評判が藩主毛利敬親(もとちか)の耳に入り、藩主の前で講義をすることになりますが、噂通りの素晴らしさに藩主をはじめ居並ぶ重臣たちは驚嘆しました。その後、藩主への兵法の講義は4回行なわれ、明倫館の教授になったのです。     《続く》         (中尾直史)

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